地名の由来
木古内(きこない)
「きこない」といわれるようになったのは、寛永年間(1624年〜1643年)に松前藩が領内を巡行し、全島の地図を作らせたときに付けられたのが始めとされている。これは、アイヌ語の「リコナイ」(高く昇る源)、または「リロナイ」(潮の差し入る川)から転化したものといわれるが、明治以前の文献には「リコナイ」の名は見当たらず、アイヌ語の転化、または文献によって語源を考証するなら「リロナイ」が正しいと解してよい。(木古内小学校創立百周年記念誌より)
札苅(さつかり)
土人、アイヌ、その命名するや必ず土地の実形においてし、いやしくも虚名を付するもの少し、かの海島岬湾潮汐を論ずるなく、地勢の秀で山岳となり、噴て火山となり、絶えて懸崖となり、陥って渓谷となり、渓水混々飛で瀑布となり、また深き淵水域変じて土地隆起し高原となり平野となり、部落この間に散在する等、一々これに名づけざる所なし。ゆえに一度地名を聞けば容易に地理を知ることを得べし。当札苅もまたアイヌによりて命名されたる地なりと伝う。そもそも、札苅の地名の起源を尋ねるに「サツカリ」とは、蝦夷語「シラッド、カリ」の略語にして「磯端」の義なりという。宣なる哉札苅前面約二浬の海岸線は出入に乏しく、かつまた砂丘も少なく平坦砥の如くにして遠浅、数多の磯散在するを見る。蝦夷水路志に曰く、「木古内の北東二浬なる札苅村の前面距浜一浬、水路ないし九尋沙底の地は北西風に寄港し得べし」と。(札苅小学校創立百周年記念誌より)
泉沢(いずみさわ)
アイヌ民族が住むようになり、このあたりは「シュシュボッケ」と呼ばれていましたが、その意味は「やなぎのかげ」あるいは「やなぎの下」を意味する言葉でした。今日のような部落の形態をなしてきたのは室町時代で、嘉吉3年(1443年)の頃といわれておりますから、今から560年ほど前のことです。「泉沢」という今日に残る地名になったのは、およそ350年ほど以前のことらしく、亀川には「さけ」がまるで、泉がわくようにたくさん上がったので、このような呼び名になったといわれております。(泉沢小学校創立百周年記念誌より)
釜谷(かまや)
釜谷村の称は、大永年間(1521年〜1527年)金左衛門・万右衛門の二人、初めてこの地に渡来し、地勢を知ろうと、夏のある日近くの山野をあちこち歩きまわったとき、咽がしきりに渇き水流を尋ねしに、恰もよし、今の字大釜谷と称する所ありて涓滴の泉岩間より瀝下するを見、大に喜び渇をいし、休息して、四辺を眺るに、その水のしたたる岩の形状円き釜(円形の鉄瓶)に髣髴たり。ここにおいて、二人竒となし、金左衛門曰く「これ珍しき岩ならずや、何とかこの面白き岩の名を取り、この地に名称を付くべし」と、万右衛門可然といい、暫く考え忽ち「カマタニ」と号したり。その後移住者漸次蕃殖するに及んで「カマヤ」と呼び、じらいこの称に従いたり。これ村名の起源なりと、古老の話なり(上磯・亀田、各村沿革。特に釜谷村。函館市立図書館)
「かまや村」の成立とその沿革は記録を徴するものがなく、詳かに知ることが出来ないが、釜谷地名のおこりは、アイヌ語「カマヤベツ」(扁盤のある川)といわれた。これは川底が盤状の多いところからついたと伝えられる。または、いまを去る380年以前、青森県より吉田金左衛門なる者当地(漂流し現在の所に住居するようになり、生国釜谷(八戸付近)の名をとり命名したという。(釜谷小学校開校百周年記念誌より)
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