泉沢2遺跡
泉沢2遺跡の発掘調査区は、東側の平坦面がB地点(3113平方メートル・標高35メートル〜37メートル)、B地点より西へ約100メートル、平坦面から段丘先端部と南西斜面にかけてがA地点(5632平方メートル・標高20メートル〜35メートル)、A地点と隣接し,橋呉川左岸に最も近い低位の段丘上がC地点(2200平方メートル・標高5メートル〜15メートル)と3箇所の区域に分かれています。本遺跡は、遺構の集中区域と遺物の包含地域とで構成されている縄文時代早期〜続縄文の遺跡であることが、発掘調査によって確認されました。
遺跡の主体をなす縄文後期(約4,000年〜3,000年前頃)は、泉沢2遺跡の最も活発な活動期に当たります。注目されることは、小規模な集落の出現です。後期初頭から前葉の時期に、A地点の段丘先端部に住居が作られました。多少時期の幅がみられますが、合わせて10軒前後のものです。一段低いC地点の橋呉川寄りにも1軒確認されています。なかには、中期の住居と全く同じ場所に作ったものや二重に礫(れき)を並べた方形の石組炉を設けた住居もあります。
住居址の周辺には、土壙(どこう)、石組炉、埋石遺構、埋設土器、集石遺構など様々な遺構が検出されています。広場では、小規模な儀式や祭祀なども行われていたと考えられています。
ここで、A地点から出土した土製の黒玉について少し述べてみたいと思います。
土製黒玉は、壊れた壺形土器(札苅II群)の底部内面や土器周辺に散乱した状況で出土したものです。垂飾用の装身具と考えられるもので、全部で46点確認されています。形は全体的に円形で、直径1センチ前後/厚さ7ミリメートル前後/重さ0.45グラム〜1.15グラム、すべて一方向から孔が穿たれています。土玉に伴うとみられる「ヒモ」などの繊維製品は、検出されていません。土玉の色調の黒色については、意図的に「黒色」に焼成した可能性が高いものです。縄文時代晩期の人々の精神生活の中に、「赤色」に対する意識と同様に「黒色」に対する意識についても存在したことを示す補完的な資料です。壊れた壺形土器と垂飾土製黒玉の出土状況からは、自然崇拝、祭祀儀礼など精神文化の一端を示しているものと考えられます。
東北地方北部が弥生時代に移った頃、北海道では、まだまだ縄文文化の伝統が温存されていました。この時期が、続縄文時代(約2,300年〜1,700 年前頃)です。C地点の南斜面から、恵山式といわれる前葉期の資料が、晩期のものよりは、多少のまとまりを持って確認されていますが、やはり散点的なものに止まっています。
当時の人々の生や死に対する考え方、あるいは自然に対する気持ちなどに、現代と共通する、ある普遍性が感じられるような気がします。遺跡から出土した遺物などは、すべて町教育委員会に保管されています。先人達の生活と精神文化の貴重な遺産である考古資料などを通して、郷土「木古内」の生活・文化を含めた自然の素晴らしさをもう一度、再発見してみてはいかがでしょうか。
お問い合わせ
生涯学習課 社会教育グループ
電話:01392-2-2224