箱館戦争
榎本艦隊江戸脱出、蝦夷地へ
1868(慶応4)年5月江戸城開城により、徳川家は駿河、遠江70万石へ減封される。
新政府軍の一方的な条件に旧幕臣の不満は高まり、抗戦派は反発を強め、戊辰戦争は東北・北陸へと舞台を移し、壮絶な戦いが始まろうとしていた。
旧幕臣の将来を憂いた旧幕府軍海軍副総裁の榎本武揚は蝦夷地を幕臣らの新天地とし、北の防備と開拓にあたることを画策する。
新政府軍による軍艦引き渡し要求に抵抗するなかで
8月20日、榎本武揚率いる旧幕府艦隊(開陽・蟠竜・回天・千代田形の軍艦4隻と咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美嘉保丸の運送船4隻)が品川沖を脱出し、仙台を目指した。
そこには、松平太郎、人見勝太郎、伊庭八郎の他、旧幕府軍軍事顧問団のジュール・ブリュネらも乗船していた。
艦隊は悪天候に見舞われて咸臨丸など2隻を失い、ようやく仙台に到着する。
仙台で、東北を転戦していた大鳥圭介、土方歳三の他、旧幕臣を乗せ、更に北へ進路をとり、新天地の蝦夷地へ向かった。
鷲の木上陸から蝦夷地平定
津軽の荒々しい海峡を越え、蝦夷地の鷲ノ木に着いたのは10月20日、新暦では北の大地に寒雪舞う12月1日であった。翌日大鳥圭介と土方歳三の二手に分かれ五稜郭を目指し進撃を開始する。
攻防を制して、26日には五稜郭へ無血入城する。
この地を守備していた松前藩に対して旧幕府軍は降伏勧告の使者を送るが殺害されたために土方歳三を隊長に松前攻略を開始する。
木古内、福島、松前で激しい戦いを制して11月5日、戦闘力に優れた土方軍により松前城は落城した。
一方大野村から江差へ向かった松岡四郎次郎を隊長とする部隊も鶉、館村で激しい攻防を突破して、11月15日江差を占拠する。
この時江差攻略の支援にきていた開陽丸が江差沖で座礁し沈没する。
旧幕府軍は当時の蝦夷地の三大港、箱館、松前、江差を占拠し、
12月15日
蝦夷地平定を実現し、箱館政権を樹立する。
新政府軍の乙部上陸と反撃
1869(明治2)年年明けとともに、新政府軍は青森に集結を始める。4月9日、江差北方の乙部村に上陸する。
そのままの勢いで江差を奪還した後、次に部隊を松前、木古内、二股口の三方向に分派し、五稜郭奪還のために進軍する。
松前城奪還攻撃は4月10~17日、福島村は4月1日、木古内口は4月10~21日、二股口は4月12~25日と両軍一進一退の激しい攻防が繰り広げられた。
新政府軍は勢力を次々と増強し、松前、木古内を突破し、矢不来、富川も制して、海岸側の陣をすべて占拠する。
二股口で互角に戦っていた土方隊も背後から突かれるなど旧幕府軍は五稜郭に退却する。
箱館総攻撃、五稜郭落城
残すは箱館での市街戦となるが、この頃には新政府軍はさらに増軍され、圧倒的な兵力の差を生じていた。5月11日、箱館総攻撃が始まり、権現台場、箱館湾海戦、弁天台場など次々と後退を余儀なくされ、5月16日、中島三郎助親子が守る津軽陣屋玉砕を最後に降伏する。
5月17日
旧幕府軍は、兵士の助命を嘆願するも、無条件降伏し、鳥羽・伏見から始まった一年半にわたる戊辰戦争が終結した。
徳川幕臣の保護とロシアの南下政策の盾として北の大地の星に蝦夷共和国という新天地を夢みた榎本武揚らの彷徨
それは徳川幕府260年を支えた最後のサムライたちが消滅した戦いでもあった。
木古内口の戦い
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