木古内口の戦い
木古内は函館から松前・江差を往来する中間に位置し、江差へは稲穂峠を越える木古内道、松前へは南部の山間と海岸を抜ける松前道の分岐点であり、松前藩の勤番所が置かれるなど、幕末から明治にかけても交通の要衝として栄えていた。明治元年10月に榎本武揚率いる旧幕府軍が森町鷲の木に上陸し、五稜郭を攻め落とし、更に松前に向けて西進するために、榎本武揚が、土方歳三が戦略の拠点とした。
新政府軍も明治2年4月に乙部に上陸し、五稜郭奪還をめざして東進する中継点でもあった。
こうした地勢上の点から木古内は戦略上重要な要所であり、二度にわたる木古内口の戦いなど、両軍の趨勢のみならず箱館戦争そのものを左右する戦いが展開された。
明治元年10月、旧幕府軍が松前に向けて進軍開始
榎本軍(旧幕府軍)は、明治元年10月20日に森町鷲の木に上陸し、箱館五稜郭に続いて福山(松前)城を攻略するために木古内を経由して進軍を開始する。
1 五稜郭から木古内へ進軍
明治元年10月20日、森町鷲ノ木に上陸した榎本武揚率いる旧幕府軍は10月26日には五稜郭を占領。松前藩との調停が破綻し、土方歳三を隊長とする約700名の松前攻略軍が編成され、今の国道228号を西進する。 10月27日、五稜郭を出発し、上磯有川で宿営する。木古内までは新政府軍との交戦は見られなかった。
2 木古内泉沢へ進軍
特に交戦することなく、土方軍は10月28日、泉沢で宿営。当初松前藩は旧幕府軍側の奥羽越列藩同盟に属していたが、東北諸藩が降伏すると寝返り、その後は新政府軍の先鋒として旧幕府軍と対峙する姿勢をとっていた。
3 木古内に本陣を設営
10月29日、木古内市街に入り、本陣を設置。翌年にかけて山崎、(現在の新栄町北側)建川、前浜、薬師山等に砲台や壕を数カ所にわたって築いた。4 知内に宿営し夜襲されるが、松前へ進軍
10月29日 知内に宿営。この時矢越方面から上陸した松前藩の兵に夜襲される。いわゆる「萩茶理の戦い」である。その後松前藩兵と千軒、福島、松前等で交戦するが、これらを突破して11月5日に松前に入る。
旧式軍備の松前軍は、新式武器や蟠龍丸等を持つ旧幕府軍には抵抗できず、わずか数時間で松前城は落城し、松前藩兵は江差方面に敗走した。
明治2年、新政府軍の東進と木古内での旧幕府軍との攻防
明治2年4月9日、新政府軍が乙部に上陸し、木古内山道(道々江差・木古内線)から五稜郭攻略のために進軍するにあたり、木古内で旧幕府軍との壮絶な攻防が繰り広げられた。
1 新政府軍の反撃開始
明治2年4月9日、乙部町に上陸した新政府軍は、三方面(大野、木古内、松前方面)に分かれ、旧幕府軍を一掃するために五稜郭に向けて東進を始める。この新政府軍の反撃から、戊辰戦争(箱館戦争)最後の壮絶な戦いが始まる。
2 稲穂峠から木古内へ進軍
4月10日、木古内方面へ進軍を開始した新政府軍は、稲穂峠(湯ノ岱から木古内に抜ける旧山道)を経由し、木古内・大川の弥七沢(今の開運橋周辺か?)に野営する。この時木古内では、旧幕府軍が一小隊で守備していたが、夜間には新政府軍の斥候と小競合いがあった。
3 第一次木古内口の戦い

4月12日~15日、第一次木古内口の戦いが始まる。
4月12日に旧幕府軍の陸軍奉行・大鳥圭介が伝習隊、額兵隊各一小隊を率いて木古内に入営し、同地を守備していた彰義隊とともに布陣を構えていた。
4月13日、早朝に新政府軍の攻撃が開始される。この時は旧幕府軍の奮闘で新政府軍は一時弥七沢の本営に退却する。
五稜郭より兵を率いて木古内に入営した大鳥圭介は、この時、白馬を木古内の薬師山の頂きに立て、全軍を指揮したといわれる。戦況を目にして自らを鼓舞するがごとく、この時の心情を詠んだ漢詩が残されている。
4 第二次木古内口の戦い
4月19日、新政府軍の兵が増強される。第二次木古内口の戦いである。この間しばらく斥候と小競合いが続いていたが、新政府軍は援軍到着後、今度は二手に分かれ進軍する。本隊と分かれた隊は瓜谷(一軒屋)から中野に廻り、小佐女川に抜ける道を進み、旧幕府軍の背後を狙う。5 壮絶な戦いの後に新政府軍が木古内を奪還
4月19日、旧幕府軍も松前方面から引揚げてきた伊庭八郎等と合流する。この日から木古内市街戦となっていく。4月20日、新政府軍は総攻撃を開始し、山崎(元営林署、高校、新栄町一帯)まで迫り、火を放った。しかしこの日前半は、額兵隊隊長・星恂太郎らが奮戦し、稲荷山(木古内高校周辺の小高い山)を死守し、西方を防衛する。
また額兵隊・堀口武泰も大いに奮戦し、前浜方面を守ったが、後半は札苅まで撤退することとなる。この時、伊庭八郎が負傷する。
この日の戦いで、旧幕府軍は山崎方面で50余人、佐女川方面で30余人、前浜方面で40余人が戦死したといわれ、戦況悪化のためにこの日は兵をまとめ、泉沢まで退却する。
4月21日、再度、伝習隊の援軍を得て、知内に孤立した彰義隊を救うために再び木古内へ向かい、新政府軍を挟み撃つ形となり、木古内奪還に一旦は成功する。
この時新政府軍は、知内方面に残っていた旧幕府軍との挟み撃ちを避けるため一時撤退するが、22日総攻撃を行い再度木古内を占領することとなる。
6 旧幕府軍は矢不来に撤退
同日、旧幕府軍は蟠竜と回天艦が巡邏していたので、海からの援護を要請するとともに、泉沢で伊庭八郎等の負傷者を搬送する。(後日伊庭は箱館で死去)旧幕府軍は、この日は木古内を奪還するが、大鳥圭介を主に緒将会議を開き、木古内を放棄し、地形的に有利な矢不来まで後退し、砲台と胸壁を構築して布陣した。こうして木古内口の戦いは終わった。
その後新政府軍は矢不来の戦いで圧倒的な勝利をおさめ、箱館での壮絶な戦いの後、5月17日旧幕府軍は降伏し、五稜郭は無血開城され、戊辰戦争(箱館戦争)は終焉を迎えた。
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