箱館戦争の人物紹介
大鳥圭介(おおとりけいすけ)

播州赤穂生れ
明治44(1911)年 6月15日病死
享年80歳
榎本軍の陸軍奉行(長官)、徳川幕府時代は洋式陸軍「伝習隊」を統率した。
戊辰戦争では主戦派首領の一人。
学問好きで、この時代としては超インテリ人であった。
印刷術でこれまでの木版に代わる鉛活版・明朝体の考案者ともいわれている。
写真法や蒸気船の模型、大砲の設計、語学の達人などマルチな才能を発揮していることでも知られている。
戊辰戦争が始った後は、土方歳三らと合流し、関東、東北と転戦していく。
大鳥は砲術の専門家でもあったが、実戦には弱かった。
直接指揮した戦いは30回程といわれてるが、勝利したのは数回とされている。
榎本武揚と鷲ノ木に上陸し、五稜郭での選挙では、陸軍奉行に選出される。
木古内の戦いでは、白馬を薬師山にたて、全軍を指揮したといわれている。
またその戦況を詠ったとされる、漢詩も残っている。
箱館戦争終了後は、黒田清隆の尽力で特赦される。
その後、開拓使御用掛やアメリカ、イギリスに渡っている。
明治7年に北海道の炭鉱調査の折、函館に寄り、「碧血碑」を建立している。
晩年は学習院院長、清国特命全権大使、朝鮮駐在公使などを経て男爵となる。


己巳夏四月、木古内の戦い
砲響雷轟、弾霰れ飛ぶ。 両軍相乱、龍威を震う。
一奇一声、容髪を容れず、 丘陵に馬を立て、戦機を観ず。
兵を率いて木古内に赴く
三軍、競いて進む、気は霓の如し。 旗鼓堂々と白馬嘶く。
遥かに聴く、先鋒方に交戦す。 鼓声銃爆は翠微の西なり。
砲響雷轟、弾霰れ飛ぶ。 両軍相乱、龍威を震う。
一奇一声、容髪を容れず、 丘陵に馬を立て、戦機を観ず。
兵を率いて木古内に赴く
三軍、競いて進む、気は霓の如し。 旗鼓堂々と白馬嘶く。
遥かに聴く、先鋒方に交戦す。 鼓声銃爆は翠微の西なり。
この漢詩は、明治二年四月十二日、旧幕府軍の陸軍奉行であった大鳥圭介が木古内口の戦いにおいて、白馬にまたがり、薬師山にて、全軍を指揮した時に詠んだ漢詩といわれています。
(木古内町史より)
伊庭八郎(いばはちろう)
江戸の四大道場の心形刀流
伊庭道場の総領息子。
明治2年5月12日 五稜郭で闘病後死亡。
享年26歳
伊庭道場の総領息子。
明治2年5月12日 五稜郭で闘病後死亡。
享年26歳
旧幕府軍・遊撃隊隊士。徳川将軍親衛隊士として、戊辰戦争を戦う。
剣はめっぽう強く、箱根の戦いで左手を負傷しその後切断する。
この時の戦いで片腕の美剣士として名を馳せる。
錦絵や丹下佐膳のモデルともいわれている。
榎本軍が鷲ノ木に上陸後、約一月遅れて箱館戦争に参入する。
明治2年4月9日、官軍が上陸し江差が奪われる。
その奪還のため出陣。中心となり大いに官軍と交戦する。
しかし、木古内、二股の戦況悪化の知らせで、松前まで撤退する。
そして4月19日に木古内に入る。
4月20日、木古内での激戦中、胸部に深手の銃創を負う。
泉沢から船(回天)で箱館病院に搬送される。
その後五稜郭に運ばれるが、二十日程の闘病を経たあと亡くなる。
亡骸は五稜郭の一角に埋葬されていると伝えられている。

土方歳三(ひじかたとしぞう)

武蔵国多摩郡石田村(日野市)に生まれる。
明治2年5月11日、箱館一本木で戦死。
享年35歳
家業を手伝いつつ、剣術を学び、近藤勇らと知り合う。
1863年に新撰組が結成され、副長となり、京都の治安維持にあたる。
池田や事件では新撰組の名を高め、後に幕臣となる。
鳥羽・伏見の戦いでは、新撰組を率いて戦うが薩長軍に敗れる。
大政奉還・王政復古など、時代が大きく変化するなかで、幾多の戦いをへて、近藤勇の処刑後は、大鳥圭介率いる旧幕府軍と合流、江戸を脱出し、宇都宮、会津と転戦する。
榎本武揚率いる旧幕府海軍に合流し、蝦夷地へ向かう。
鷲ノ木に上陸した旧幕府軍は、五稜郭を占領して、松前、江差に進軍し、蝦夷共和国を樹立する。
新政府軍の反撃に備えて宮古湾海戦に参加するが、かろうじて生還する。
新政府軍の反撃に対して、二股口では徹底抗戦する。
新政府軍の箱館総攻撃が始まり、孤立した弁天台場の兵士を助けるために出陣、1869年5月、一本木関門で馬上で指揮していたが、その乱戦のなか腹部を貫かれて戦死する。
辞世の句は
「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」、
「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」と伝えられている。。
榎本武揚(えのもとたけあき)

東京都御徒町に生まれる。
明治41年(1908年)に死去、
享年73。
幼少の頃から儒学・漢学、英語を学び、19歳で箱館奉行堀利煕の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。
安政3年(1856年)には幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所、国際情勢や蘭学や航海術・舎密学(化学)などを学んだ。
文久2年(1862年)オランダに留学。
国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦開陽で帰国、慶応4年(1868年)に徳川家家職の海軍副総裁に任ぜられた。
戊辰戦争では、江戸城開城後、新政府軍による軍艦の接収を拒否し、多くの幕臣を率いて江戸を脱出し、蝦夷地に向かう。
戊辰戦争最後の戦いとなる箱館戦争では、一時期蝦夷共和国を樹立して新政府軍に抵抗するが、箱館五稜郭でで降伏。
戦いに敗れた後は暫く幽閉されたが、黒田清隆の庇護の下、北海道開発に従事。7年(1874)海軍中将兼駐露公使となり、翌年樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て第1次伊藤内閣逓相に就任。
黒田内閣農商務相・文相、第1次山県内閣文相、第1次松方内閣外相等を歴任し、日本の近代化に貢献した。
星 恂太郎(ほしじゅんたろう)
天保11(1840)年、東照宮宮司の息子として生まれる。
幕末の仙台藩士、額兵隊隊長。
明治9(1876)年死去
享年37歳
幕末の仙台藩士、額兵隊隊長。
明治9(1876)年死去
享年37歳
幼少期から武芸に優れていた。はじめは過激な尊王攘夷派であり、当時の開国論者の暗殺等を企てるが、逆に世界情勢への無知さを諭され、脱藩する。
江戸に出て洋式の銃隊編成訓練を学んだ後、仙台に帰国すると、藩主の伊達慶邦からその才能を認められ、洋式軍隊である額兵隊800人を組織して、藩の軍隊の調練にも務めた。
戊辰戦争が起きると、仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主として新政府軍と戦う。
このとき、星も配下の額兵隊を率いて奮戦する。
しかし新政府軍の猛攻を受けて藩主・慶邦は降伏するが、星は降伏を潔しとせず、額兵隊を率いて蝦夷に逃れた。
そして箱館戦争において榎本武揚率いる旧幕府軍の一員として奮戦する。
箱館戦争後、新政府軍によって捕らえられ、弘前藩に幽閉された。
罪を許された後は開拓使大主典となり、晩年は製塩業を営んだ。
榎本軍旧幕府軍の箱館政権時の組織構成

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