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木古内町観光協会 > 歴史 > 咸臨丸最後の謎

咸臨丸最後の謎

咸臨丸は何故沈んだのか?

咸臨丸最後の謎

サラキ沖の写真
咸臨丸のイラスト
サラキ岬の写真
咸臨丸は何故サラキ岬沖の岩礁で座礁したのか?
初冬の北の厳海で、しかも深々の暗闇の中で三歳の赤子から八十三歳のお年寄りを含めてなぜ、全員が助かったのか?
咸臨丸最後の謎は今も尚解かれていない。

「咸臨丸は箱館を出航後、初冬の暴風雨に見舞われ、方向を見失い座礁沈没した」
というのが定説とされています。
しかし、この定説に様々な疑問が投げかけられるようになりました。

明治政府の体面のための捏造ではなかったか?
乗組員の技術的な問題ではなかったのか?
暴風雨の中でどうして全員が無傷で助かったのか?
そして、救助された人々のその後の足どりは?
この他、様々な問いが投げかけられています。

咸臨丸の晩年は人知れず運搬船になっていたこと、明治初期なればこそ、しかも未開の北海道の出来事であり、当時の運行や天候の記録が無いことなどが、咸臨丸の最後の謎解きを阻んでいます。

咸臨丸の最後に関する一考察

咸臨丸が沈んだ9月20日は新暦では現在の11月2日である。
初冬といえども、津軽海峡は寒気に加えて目まぐるしく風と潮が変化する時期である。
出航前から暴風雨であったことは無い。
もともと中古船であった咸臨丸は長く厳しい航海と年月によって老朽化しており、既に機関もはずされた帆走船であり、江戸脱走の遭難時には二本マストになっていたという説もあり、溢れるばかりの乗船者を乗せて出航することは考えられない。

咸臨丸が出航した20日午後の天候は、心配されながらも航海するには十分と判断された。
当時の記録の一つには、その時の海を「金波銀波」と表現しているものもある。
咸臨丸は、箱館で数名の病人を降ろした後、期待と不安が入り混ざる401名を乗せて一路小樽へ向けて出航した。

箱館を順調に航海してまもなく、現在の当別から釜谷に差しかかった頃、突如として、初冬特有の南西からの突風が吹き始める。
一時的なものと判断し前進するが、太平洋からの潮の流れが速く、さらに強い南風が吹き荒れ、次第に不安定になりはじめる。
アメリカ人の船長や乗組員も一瞬不安がよぎる。
辺り一面は既に闇の中にあり、次第に船体は上下左右に不規則に揺れ、荒れ狂う波の音だけが聞こえてくる。
一部の帆を降ろすが、既に船の自由はなかった。

二本マストで老体の咸臨丸には耐えるだけの力量は既になかったのかもしれない。
太平洋横断の快挙をなし遂げた船であること知る人はなかった。

サラキ岬の手前に差しかかった頃には多方向から吹きつける風と太平洋からの強い潮流にのまれて漂流をはじめ、日本海から押し寄せる潮流に前進を阻まれて、次第にサラキ岬寄りに押し流されていく。

彷徨う咸臨丸の中では、乗組員の激しい声だけが響いている。
暗闇の中で荒れ狂う風と波の音に、乗船者は不安におののきながら体を寄せ合い、ただじっと息をひそめるばかりであった。

「錨を投げろ」
突然、荒々しい声が聞こえ、荒波にこだまする。
このままでは陸地に激突するかもしれない。
アンカーロープが切られ、錨が次々と投げ込まれる。
乗組員のとっさの判断により岩礁への激突は避けられたが、全く自由のきかなくなった咸臨丸は波に押されるようにサラキ岬から突き出た岩礁に乗り上げた。
箱館出港からサラキ岬座礁までの航路図
箱館出港からサラキ岬座礁までの軌跡

咸臨丸が岩礁に乗り上げた時刻・・・・それは定かではない。
未だに止まない山背風と荒れ狂う波の音が木霊する
深々なる闇の中の出来事であった。
「何が起きたのか」はわかっても、「どうなったのか」は誰も分からない。

「お~い、あそこだぞ」
どこからともなく、次々と人が駆けつけてきた。
人が人を呼び、泉澤の村中が大騒ぎになった。
静かに岩礁に乗り上げた咸臨丸は、船体は傾き、浸水も始まったが、すぐに沈没する心配はなかった。
丁度引き潮であったため、幸い海岸まで歩いていくこともできた。
村人の若い衆が咸臨丸に駆け寄る。
「こっちだ、こっちだ」
乗船者はようやく気を取り直して、我先にと海岸へ向かった。

しばらくして突然、赤子の泣き声が聞こえた。
「助かった」喜びを謳歌するようにその泣き声は澄んでいた。

高橋仁吉という初老の男が一人、救助された後、持病が悪化し帰らぬ人となった。
仁吉の葬儀が泉澤の大泉寺で行われた同じ頃
老大樹が容赦ない風に倒れるが如く咸臨丸はサラキの海に消えた。
咸臨丸が消えたサラキの海と咸臨丸終焉記念碑の写真

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