ここからメインメニュー

メインメニューここまで

サイト内共通メニューここまで

ここから本文です。

木古内町観光協会 > 歴史 > 戊辰戦争

戊辰戦争

欧米進出と混迷する徳川幕府

1853(嘉永6)年ペリー艦隊が浦賀沖に現れ、開国を強要し、幕府は不利な和親条約を締結した。
欧米では産業革命が起こり、その近代化の波は植民地化という形で世界に広がりその矛先は日本にも及んでいた。
危機感を抱く薩長の台頭、幕府保守派の弾圧など政局は混乱を極めていた。
第14代将軍徳川家茂が第二次長州征伐に失敗、病死すると第15代将軍徳川慶喜は朝廷による傀儡政権をもくろみ「大政奉還」を行うが、一方、薩摩・長州藩と一部の公家は「王政復古」を宣言し慶喜や親幕派の公家を排除しようとした。
鎖国政策に甘んじていた幕府は迷走し、幕府、薩長、朝廷が入り乱れて、その対立は深まるばかりであった。
戊辰戦争の動き

鳥羽・伏見の戦い

新しい日本を構築しようとする薩長はその勢いを強めていた。
1868(慶応4)年1月3日
幕府軍は、その横暴な振る舞いを阻止するために兵をすすめ、京都の鳥羽・伏見で衝突する。
日本史上最大の内戦である戊辰戦争の始まりである。
戦いは三日続くが、偽りの錦の御旗に幕府軍兵士は戦意を失い、薩長軍の圧倒的な勝利で終わる。
この時徳川慶喜はひそかに大坂城を脱出し、開陽丸で江戸に戻る。
このことにより幕府軍は自壊し、各藩兵は撤退する。
名実ともに朝廷の支持を受けた新政府軍は薩長藩を中心に、東海道、東山道、北陸道の三軍を編成し、江戸に向け進軍を始める。

江戸城無血開城

江戸に戻った慶喜は寛永寺に謹慎し、朝廷に恭順する意志を示すが、新政府軍は江戸城総攻撃を一旦は決定する。
旧幕府の終戦処理調停役を任された勝海舟は西郷隆盛との交渉の末、
4月11日
慶喜の水戸謹慎、江戸城の尾張藩委任を条件に江戸城は無血開城され、攻撃は回避された。
これにより260余年続いた江戸幕府に終止符が打たれた。
しかし、旧幕府軍の徹底抗戦派は江戸を捨て、上尾、市川、宇都宮へと転戦しその戦火は奥羽、北越にその広がりをみせていった。
東北戦争の始まりである。

壮絶な東北戦争

江戸城総攻撃が計画された同じ頃、新政府が松島に入り、仙台藩主に会津追討を命じる。
仙台と米沢両藩は会津と庄内藩にも恭順を勧め、また奥羽十四藩の重臣を白石城に集め、嘆願書を新政府に差出すが一蹴される。
この嘆願を無にした長州藩士を仙台藩士が殺害する。
5月3日、再度白石城に集まり同盟を結び、さらに北越六藩も加わり、奥羽越列藩同盟が結成される。
このことにより戦火は奥羽越全域に飛び火し、庄内、白河、長岡など、各地で激戦が繰り広げられる。
時同じくして小田原、箱根でも戦闘が起こり、さらには上野山に布陣していた彰義隊に新政府軍が猛攻を加える。
両軍一進一退で壮絶な攻防は続いたが、榎本艦隊が蝦夷へ向けて江戸を脱出し、松島に到着した頃、奥羽越列藩同盟は総崩れの状態になっていた。
9月10日
1ケ月もの間若松城に籠城して徹底抗戦していた会津藩が降伏、9月24日庄内藩も降伏し、東北戦争は終焉を迎えた。

最後の戦い、箱館戦争へ

奥羽越列藩同盟の敗色が強まり始めた頃、
8月20日榎本武揚率いる旧幕府艦隊が江戸品川を脱出する。
仙台で土方歳三や大鳥圭介ら旧幕府軍の残党を乗せ石巻から蝦夷地(北海道)へと一路向かった。
舞台は戊辰戦争の最後の戦いとなる箱館戦争へと移る。

箱館戦争

本文ここまで

ここからフッターメニュー

ページの先頭へ戻る