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木古内町観光協会 > 歴史 > 咸臨丸の最後と白石の人々

咸臨丸の最後と白石の人々

変革という歴史に翻弄された・・・

咸臨丸の最後と白石の人々

咸臨丸は、日米修好通商条約批准書交換目的で渡米する幕府遣米使節護衛の随伴艦として太平洋を渡る偉業をなし遂げるなど、幕末の動乱期に日本近代化の歴史的象徴として活躍しました。
しかし、その栄光とは裏腹に、晩年は変革の渦に巻き込まれます。
1869(明治2)年5月、旧幕府軍が箱館五稜郭で降伏し戊辰戦争が幕を閉じた後、軍艦から北海道への開拓使の物資運搬船となり数奇な運命をたどります。
旧幕府軍側に立った東北の諸藩の多くは戊辰戦争に敗れたため祿高を減らされたために、多くの藩士は新天地を求めて北海道(蝦夷)への移住を余儀なくされます。
仙台藩の白石にあった片倉小十郎一族1400名も同じ運命にありました。
1871(明治4)年9月12日、咸臨丸は、北海道移住を決意した片倉小十郎家臣団401名を乗せて、仙台の寒風沢を出航します。
箱館経由で小樽に向かう途中、9月20日、木古内町サラキ岬沖で岩礁に乗り上げ座礁します。
現地(泉沢)の人々の懸命な救助により乗船者は難を逃れましたが、咸臨丸はその数日後に破船沈没しました。
1867年10月 大政奉還
1868年1月 鳥羽・伏見の戦いが始まる。
4月 江戸城が開城される。
8月 榎本武揚率いる旧幕府軍艦隊が蝦夷に向けて品川を出航。
9月 東北の諸藩は奥羽越列藩同盟を結んで尊皇攘夷派に対抗したが、その戦いに敗れる。
敗れた仙台藩は領地が三分の一、白石は全てを南部藩へ。
片倉小十郎邦憲一族の約1400名は路頭に迷うことに。
明治政府はロシア南下の脅威のために東北各藩によって北辺の防備を強化する。
1869年8月 片倉家は蝦夷地移住を願い出る。(約1000名)
蝦夷の名が北海道に変わる。
1870年6月 第一陣が移住。邦憲を含む19戸が幌別へ。
1871年3月 第二陣の29戸が移住。
その後、移住は開拓史の直轄事業となり、移民は、開拓史貫属(氏族の身分をもち北辺を守りながら開拓する人)の身分とされたことから、約150戸600名が申出る。
1871年9月4日 松島湾口の寒風沢に咸臨丸が到着。
9月12日 第三陣の咸臨丸は112世帯401名を乗せて出航。
9月21日 第四陣として、蒸気船の庚午丸(こうごまる)が、84世帯194名を乗せて出航。
9月17日 咸臨丸は函館に寄港。
9月20日 函館港を出航するが、木古内サラキ岬の岩礁で座礁する。
開拓史は「一人も怪我なく、荷物も陸揚げし安堵した」と報告してる。
(乗船者の高橋仁吉は数日後死去し、近隣の大泉寺で葬送されている。)
咸臨丸は数日後に海中に沈没する。
その後、生存者は、函館までの陸路32キロを歩いて戻り、後発の庚午丸に乗船する。
10月16日 庚午丸が小樽港へ到着。
1ケ月に及ぶ悪路と風雪を乗り越えて、数名の老人が亡くなったが、9日に300名、10日に273名、18日に12名が石狩に到着した。
ここから更に過酷なまでの開拓の歴史が始まる・・・
白石の人々の写真
咸臨丸最後の乗船者である白石の人々。武士の身分は剥奪されたが、北海道警護の目的で、刀を持つことだけは許されたという。
咸臨丸が出航した寒風沢
咸臨丸が出航した寒風沢(現在)
咸臨丸最後の航路
高橋仁吉の過去帳
大泉寺にある高橋仁吉の過去帳

咸臨丸最後の乗船者(白石片倉小十郎家臣団)一覧

最小年齢 3歳 最高年齢 83歳 平均年齢 28歳
咸臨丸最後の乗船者一覧

これら咸臨丸最後の乗船者が過酷な歴史の運命の中で幾多の苦難を乗り越えて北海道の開拓にあたり現在の札幌市白石の礎を築いたのです。
咸臨丸史跡看板の写真
咸臨丸史跡看板の写真
しかし、咸臨丸は何故サラキ岬沖の岩礁で座礁したのか?
初冬の北の厳海で、しかも深々の暗闇の中で赤子からお年寄りを含めて、どうして全員が助かったのか
咸臨丸最後の謎は今も尚解かれていない。

咸臨丸の最後の謎

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